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聖パスカリス・バイロン司祭      St. Paschalis C.        記念日 5月 17日



 今や全世界公教徒の待望の行事となった御聖体大会はおよそ115年ほど前にイタリアではじめられたものであるが、1897年この大会その他御聖体に関係ある事業の保護者には、どの聖人を選ぶかが問題になった際、多くの人々は、御聖体の殉教者と呼ばれる聖タルチシオを期待したにかかわらず、時の教皇レオ13世は一般の予想を裏切って、フランシスコ会の平修士なるパスカリスを挙げ、その理由を説明して「御聖体の玄義に対し、熱烈な信仰を有した事においては、数ある聖人方の中でも聖パスカリス・バイロンを最となす」と仰せられた。実にパスカリスは生涯御聖体に対し特別の信心を持っていた聖人で、そのあたりの消息に通じている人は、御聖体に関する行事の保護者として、彼を選び給うた教皇の御措置の適当なるを認めずにいられぬのである。

 聖パスカリス・バイロンは1540年、スペインのトレ・ヘルモサに生まれた。貧しい日雇いの父マルチノと母イサベラは共に敬虔篤信の善行家で、乏しい収入の中から、更に困窮の人々に施しをする事も一再ではなかった。わけてもイサベラは人知れず施すことを好んでいたが、ある時人がそれについて非難の語気でマルチノに告げると、彼は妻を弁護するように「いや、あれがそれほど度々人に恵むとしても、別に私の一家がその為乞食に落ちぶれることもありますまい」と言ったという。以ていかにこの夫婦が善良素朴な人々であったか察せられよう。
 そういう親の子と生まれたのであるから、パスカリスが幼い時から純心で信心深い心を持っていたのも怪しむに足らぬのである。
 家が貧しいので彼も子供の頃から遊んでいる訳にはいかなかった。始めは父の持っている羊の世話などをし、後にはマルチン・ガルシノという人に頼まれて、その家の羊の番をしに行ったりした。
 通学する余裕のないパスカリスはもちろん読み書きが出来なかった。そういう彼にとって、司祭達が自由に大きな書物を読んで、祈りをしたり教理を教えたりするのは、どれほど羨ましいことであったろう。彼は出来る事なら自分もああなりたいと考えた。遂に彼は誰からか聖母マリアの小聖務日課をもらい、羊の番をするその傍らそれを見て、知らぬ字は道行く人に教わり一字二字と覚えるようにし、根気よくそれを続けたが、熱心は恐ろしいもの、とうとうその書物全部を通読する事が出来るようになった。そしてこの聖なる教科書はその後も彼の一生を通じて又なき伴侶となったのである。
 彼の聖母マリアに対する信心は小さい時からすぐれて深かった。彼は自分の杖の上に小さい聖母像を飾ったり聖母の小聖堂付近へ羊の群を連れて行ったりして、暇さえあれば天の御母に祈った。「もっとよい草のある所が他に沢山あるのにどうしてここばかりに羊をつれてくるのだ」とある時人が尋ねると、彼は「でも、ここにいれば聖母様が守ってくださいますから私の為にも羊の為にも一番よいように思います」と答えたという。
 パスカリスはまた前にも言った通り早くから御聖体に対する熱烈な信仰を持っていた。牧童の悲しさに、普段の日はもちろん、日曜日にでも主人が許さねば、聖堂に参詣出来ないのは、彼にとってどれほど残念な事であったか知れない。そして主人はミサ拝聴を許してやった時ほど、その少年の顔に悦びが輝くのを見たことはなかった。
 どうしても参詣の出来ぬ時には、いつもパスカリスは聖堂に向かって手を合わせ、御ミサの様子を目に浮かべながら精神的にこれにあずかろうとした。ある時やはりそうして一心に祈っていると突然顕示台の御聖体がありありと眼前に現れた。彼は驚喜して礼拝し、付近の人々をも呼び集めた。そして彼等が「何も見えないではないか」となじると、彼は不審そうに、「それ、そこにおいでになりますのに!」と叫んだそうである。
 かかる敬虔な彼が修道生活を望むに至ったのは、自然の成り行きと言えよう。しかし彼は程近いデ・ラ・フェルタ修院に入るであろうと思った近所の人々の予想を裏切って、より厳しい修道院を望んだ。それはその頃スペインで盛んになりかけたフランシスコ修道院に外ならなかったのである。
 パスカリスは24歳にして憧れの修道院に入った。彼は会の戒律を一方ならず重んじて、これは我等修士が天国に昇る道であると言った。今や愛する御聖体の主のお傍近く住む事が出来るようになった彼の喜びは、喩えるものもないほどであった。彼は日毎いそいそと聖堂に参り、御聖体の前に平伏して心ゆくまで祈りをした。時には夜中にでも主を訪問して、長くその御許に止まることさえあった。そして主の御苦難にあやかる為に、苦行を好む事にかけても敢えて人後に落ちなかった。
 修院における彼の仕事は玄関番であった。学問こそなけれ善良、篤信、親愛の彼に、或いは豊かな慰めを、或いは忘れ得ぬ教訓を、或いは快い施しを受けて喜びを覚えた人々はどれほどあったか知れぬのである。
 彼はまた共同生活の基礎たる従順の徳にも秀でていた。1570年彼は修院長からフランスなる長上の許まで書簡を届けるように頼まれたが、当時あたかもその国はユグノー戦役の最中で、新教徒がカトリックの司祭や修道者を手当たり次第虐殺するという有様、そこへ乗り込むのは全く命がけの冒険であった。しかし彼は直ちに修院長の意に従い、よくその任を果たした。ただしユグノー一派の異端者達の恐ろしい冒涜は、敬虔な彼の心をいたく傷つけたものと見えて、帰国した時彼の頭は真っ白になっていたという。
 そのフランスに使いした時のことである。ある日彼は異端者達に捕らえられて、御聖体に対する信仰を尋ねられた。すると彼は熱誠おもてに溢れて、キリストの実際その中に籠もり給う旨を答えたから、異端者達は怒って彼に石磔をなげうち、これを殺そうと計ったが、不思議にパスカリスは、ただ胸元に生涯傷を受けただけで九死に一生を得たのは、これも御聖体の主冥々の御加護があった為であろう。
 1592年パスカリスは病床に就いて、遂に御聖体ならぬ天国に在す光栄の主を仰ぐべく此の世を去ったが、臨終に際し修院の医師が二人のわが子をその枕べに連れ行き、祝福を願うと、彼は「願わくは慈悲深き天主、この子供等をして貧者を愛する者とならしめ給わんことを!」と祈ったと伝えられている。
 死後その遺骸が聖堂に運ばれ、死者の御ミサが立てられた時であった。聖変化が行われると、死せる聖人は二度も眼をみひらいて、御聖体を仰ぎ見る如くにし、これを目撃した人々の心に深い感動を与えた。彼が聖人の列に加えられたのは1690年の事である。



教訓

 総ての信心の務めの中、御聖体に対する崇敬の業ほどすぐれて尊いものはない。聖パスカリスはこの事を十分にわきまえ、実行し、遂に御聖体に関するあらゆる事業の保護の聖人と仰がれるに至った。我等も彼に倣い、彼の保護を頼み、更に更に御聖体に対する我等の信心を深めるようにしよう。